(3)欲求を意識するとき−したい、と思うのはどんなときか−

   飢えや渇き、排せつ、睡眠の欲求は基本的欲求と呼ばれます。これらはいずれも生きていくために必要な行為であり、生まれながらに備わった仕組みで欲求が起こると考えられているためです。ただ、生きていくために必要なことに私たちはすべて「…したい」という気持ちを感じているわけではありません。例えば、呼吸をしなければ私たちは死んでしまいます。しかし、普段は「息をしたい」と特段に感じません。「息をしたい」と思うのは、溺れたときや首を絞められたときなど息ができないときです。この時には、水面に浮きあがるとか絞めている手を振りほどくといった普段の呼吸動作と異なる動作をして息ができる状況にする必要があります。「呼吸」を基本的欲求のうちに入れる心理学の教科書もありますが、欲求と呼ぶのには違和感があります。これは、健康な人であれば呼吸の動作そのものには「…したい」という気持ちは必要のない自動的な動作だからです(睡眠中もしています)。「(1)欲求とは何か」で述べたように、心理学では欲求を「したいという感覚」がある場合に限っていませんから、呼吸の欲求があってもおかしくはないのですが、すべての行動に欲求を想定しているわけでもなく、「したいという感覚」を強く引き起こすことがある行動に対して欲求を想定します。このあたりは心理学者の立場はあまり一貫したものではありません。「(3)欲求の種類」で考えるので、ここではこれ以上は掘り下げず、どういうときに「したいという感覚」が起きるのかを考えていきます。
   「食べる」という、ほとんどの心理学の教科書で基本的欲求とされている行為について考えてみます。血液中の糖分が少なくなる(血糖値が下がる)ことが「食べたい」という欲求を感じる原因の一つです。しかし。食べることだけが血糖値を上げる手段ではありません。高校生物の教科書にも出てくるように、肝臓に蓄えたグリコーゲンの分解など、体内に蓄えた物質を分解するという仕組みも働き出します。とはいえ、「グリコーゲンを分解したい」という気持ちは起きません。「食べたい」という気持ちになるのは、体内の仕組みだけでは栄養のやりくりができず外部から取り込む必要がある時です。ただし、栄養や水分の欠如がある一定レベルになれば自動的に食べたくなるのでもありません。普段なら食事をとる時刻になっても、仕事やスポーツなどに集中しているときや寝ているときには「食べたい」「飲みたい」とはなりません。体内の様々な仕組みが無意識のうちに働いて栄養や水分を補うことも可能だからです。もちろんいつまでも内部でやりくりはできず、外部から栄養を取り込む必要があります。外部から体内に食物を取り入れるためには、最低限口に物を運んで咀嚼するという動作が必要です。多くの場合、食物のあるところまで移動して手に取り、物の見た目やにおいで食べられることを確認します。多くの筋肉と感覚器官を使う動作です。我々は大した苦労もなく行っていますが、同じことをするロボットを作るのは現在の最先端技術でも簡単ではありません。
   身体(脳を含みます)は私たちの意識に登らないところで様々に働いて「生きる」という行為を支えています。むしろ「生きる」ことのほとんどは無意識的、自動的に行われていると言ってもよいでしょう。呼吸や食事に限りません。部屋の温度が下がってきたら私たちはどうするでしょうか。私たちは服をもう一枚来ようとするかもしれませんし、暖房のある暖かい部屋に行こうとします。これはいずれも普通は意識的に行う行動です。しかし、意識に登ってこないところでは皮膚表面の血管の収縮による熱の発散の抑制や代謝の亢進による熱産出も行われることでしょう。むしろ、少しの室温変化であればこういった身体の体温維持システムが働いて自動的に体温を維持して、寒くなったと気づかないのです。

「したいという感覚」は必要に応じて進化した
   このように見ていくと、栄養が不足すると食べたいと感じる、寒くなると暖かくなりたいと感じるという単純なものではないことがわかります。意識に上ってくる(多くの場合は「…したい」という気持ちになる)のは、手や足や口を動かすといった動作が必要なときです。これらの動作に必要な筋肉は、一般には意識的に動かすことのできない内蔵の筋肉とは違い、骨格筋の働きによります。生物の教科書にあるように骨格筋は随意筋とも呼ばれます。ただ、呼吸や歩くといった行為に一々「…したい」という気持ちが必要無いように、随意筋を動かすのに必ず「したいという感覚」が伴うわけではありません。また、あまりに寒いと手足が震え出すように、意志とは関係なく随意筋が収縮するときもあります。単純な動作の反復では「…したい」という気持ちになる必要はないのでしょう。「目的に応じて筋肉の動きを臨機応変に変える」といった場合に「…したい」という気持ちになるようです。前に述べた例で言えば、息ができないときです。溺れているのならまず水面まで浮き上がる動作が必要ですし、首を絞められているのなら首を絞めているものを外さなければなりません。必要な動作(使う筋肉)が大きく異なります。私たちには意識に上ってくることしかわからないので、「…したい」という気持ちがすべてであるかのように思ってしまいますが、生きていく仕組みの一部にすぎないのです。こういった仕組みは生物の進化の過程で獲得されたものです。
   裏を返せば、随意的にコントロールできない行為には、「したいという感覚」を持つように進化しないということです。例えば、生物は子孫を残そうとする欲求を持っていると言われます。われわれヒトを含む哺乳類では、交尾、妊娠、出産、育児という過程が子孫を残すために必要です。少なくともヒトに関していえば、交尾すなわちセックスという行為への欲求があることは説明するまでもないでしょう。しかし、妊娠や出産をしたいという欲求があるでしょうか。妊娠しているときは幸せに感じるという声は聞きますが、子どもが生まれるという期待と結びついた場合が多いのではないでしょうか。セックスが、子どもが生まれるという結果と切り離しても行われる(避妊という形で切り離そうとする場合の方が多いでしょう)のに対して、妊娠という行為そのものへの欲求が一般的にあるとはとても言えないのではないでしょうか。出産については、その行為そのものへの欲求があるとは妊娠以上に言い難いでしょう。育児については、様々な行動を含んでいるので簡単ではないのですが、他人の赤ちゃんでも可愛いと思えることや、赤ちゃん的特徴(ベビーシェーマ)を持つぬいぐるみやキャラクターへの愛着、動物をペットとして育てる人の多さ、などから、少なくとも育児のある部分に対する欲求があるのは確かでしょう。
   なぜ、子孫を残すという生物として不可欠な過程すべてに「したい」という欲求を持つように進化しなかったのでしょうか。医療が発展してからは人工中絶法が発明されて妊娠を中止することは可能ですが、元々は妊娠も出産も、セックスをしてうまく受精すれば個体にとっては不可避的に進行する過程です。意識的に中断することは困難です。ごく最近の医療の進歩によって痛みもそれほどなく安全に妊娠を中断する人工中絶が可能になりました。それ以前にも人工中絶があったとはいえ、痛みを伴う危険なものでした。それに対して性行為は、随意筋を動かして意識的に行う必要のある複雑な行動です。異性を見つけ出し、異性が性行為可能であることを確認して、相手の動きや反応に合わせて種々の随意筋を動かす必要があります。すでに述べた言い方では「目的に応じて筋肉の動きを臨機応変に変える」必要があります。もちろん、性行為と行為に至る過程が非常に定型化している動物では「したい」という気持ちがなくても、ある特定の刺激に対して決まった反応が起きるようになっているだけでも交尾が可能かもしれません。例えば、生物の教科書で取り上げられるカイコガでは「したい」という気持ちはないのかもしれません。しかし、哺乳類では異性の探索から受精に至る過程の少なくともどこかで柔軟な行動が必要です。
   (1)欲求とは何か、(2)欲求を意識するとき、と見てきました。それをもとに、(4)では心理学における欲求の分類を批判的に見ていきます。


神戸松蔭女子学院大学心理学科   待田昌二
2015年3月