(1)なぜ欲求のコントロールが必要か−進化論的視点−

感情、欲求は何のためにあるのか
   感情や欲求という心の働きは人間だけでなく動物にも備わっています。動物、例えばネコを考えて見ましょう。いつもならエサをもらう時間にまだエサの準備ができていなければ、ネコは飼い主に対してニャーニャーと鳴いて餌をねだるでしょう。ネコが実際にどのように感じているかは正確にはわかりませんが、私たちと同じように、おなかがすいた、食べるものがほしいと感じている、と書いても違和感のある人は少ないでしょう。心理学でも食欲は、生きるために必要な欲求である基本的欲求の一つと言われ、ヒトと動物に共通した欲求として語られます。また、食欲が生じる生理的メカニズムに関する動物の研究成果はヒトにもあてはめられます。
   ネコは食欲を感じたときにどのように行動しどのような気持ちになるのでしょうか。人間に飼われているネコなら餌をもらって食欲が満たされますが、野生のネコなら自分で探しにいく必要があります。お腹がすけば獲物を探して歩き回り、野ネズミの匂いといった手掛かりを見つければ「興奮」して集中力が高まり、ネズミを見つければすぐに追いかけるでしょう。上手く捕まえることができれば、「喜び」とともに、捕まえることのできた状況や場所を記憶して、次回の狩りに生かすでしょう。時には今まで嗅いだことのない匂いに気づき「不安」を感じれば周囲への警戒を高め、クマのようなネコにとって危険な動物に出会えば「恐怖」を感じて走って逃げ出すことでしょう。そしてやはり、その場所や状況を記憶して、同じ場所には二度と来ないかもしれません。
   ここでは感情を表す語に「不安」というように括弧を付けました。ネコが感じる感情が人間と全く同じとは限らないためです。しかし、不安、恐怖といった感情は動物にも見られるものであり、人類が独自の進化をはじめる前から他の動物と同じように持っていたことは確かでしょう。上のネコの例でみたように、動物は欲求にもとづいて行動を開始し、行動の過程で様々な感情が喚起されることで周囲の状況に対応する準備ができるといえます。また、欲求を満足させる状況や対象、感情を強く喚起させる状況や対象を記憶します。すなわち、欲求や感情は動物が生きていくために必要な心の働きとして進化し、動物は欲求や感情に従って行動していると言えます。

動物は欲求のままに生きていけばよいのか
   食欲を例に考えて見ましょう。ここでは食欲を「食べたい」という気持と考えましょう。心理学では欲求を「…したい」という気持ち、というように単純に考えないのですが、とりあえずはそのように定義して話を進めます。人間は「食べたい」という気持ちだけで食べていると食べ過ぎて肥満になり、栄養が偏って病気になることさえあります。なので、食物に含まれるカロリーや栄養素について知識を得て、考えながら食物を選びます。一方動物は、カロリーや栄養素について「知識」を持っていません。動物は、適正なカロリーや栄養のバランスをどのように知るのでしょうか。「身体でわかる」というのが一般的な考え方ではないでしょうか。必要な栄養素が欠乏すると、自然にその栄養素を含む食べ物が必要量だけほしくなるというわけです。その能力があるのなら動物園での飼育においても、バイキング形式のようにいろいろな食物を並べておけば必要なものを必要なだけ動物が食べてくれるはずです。ところが実際には、飼育員は動物に必要なエサが何か考えたり、与える量をコントロールしたりしています。肥満や栄養の偏りといった、人間と同じ問題が起きることがあるからです。

動物は食べられるものをどうやって区別しているのか
   実際には、何をどれだけ食べたらよいか「本能でわかる」「身体でわかる」程度は動物の種類によって異なります。昆虫、例えばチョウを考えて見ましょう。チョウの幼虫は植物の葉を食べますが、モンシロチョウならキャベツやアブラナ科の植物というように食べる種類が限られています。そもそも親が匂いを手掛かりに植物を選んで卵を産むのですが、幼虫も食べることのできる葉を区別できるので、他の植物の上に置かれてもその葉は食べずに、食べることのできる葉を探しまわります。成虫になると幼虫時代とは全く異なり花の蜜を吸いますが、誰からも学ぶことはできません。口の形がストローのような管状のため、色々なものを食べてみるということもできません。当然ながら、花に引かれて蜜を吸うという習性を生まれ持っている必要があります。
   何を食べるべきか生まれながらわかっているように見えても、チョウとは違って試行錯誤しながら学んでいく動物もいます。例えばある種のカエルは、ある程度の大きさの動くものならとにかく食べてみて、非常にまずかったり刺激があったりすれば吐き出して次からは食べないという形で食べるものを学びます。このように、食べるべきものの特徴(匂いや外見、動きなど)を生まれながらある程度は知っているが、実際に口に入れて判断して食べることのできるものを学習していくという動物が多いのです。そのため、多くの動物は、はじめて食べるものを珍しがって喜ぶというようなことはしません。少しだけ食べてみて様子を見ます。もしも、食べた後に体調が悪くなれば次からはそれを食べないというやり方で食べるものを学んでいきます。食べた後に体調が悪くなったものと同じ味のものは次からは食べないという学習は、心理学で味覚嫌悪条件づけと呼ばれますが、一回の経験だけでも起こる非常に強い学習であることが知られています。
   しかし、食べてみて体調が悪ければ次から食べないといっても、いきなり毒性の強いものを食べてしまうこともありますし、自分だけで試行錯誤しながら食べることのできるものを探していくのは危険性があります。そこで、親に育てられる動物は、親が与えてくれるものを食べる、親と同じものを食べるということを通して何を食べるか学びます。親やそのまた親がそれを食べてきて子孫を残すまでに生き延びたわけですから、高い安全性が保障されています。いわば、伝統を受け継ぐわけです。例えば、ニホンザルは多くの種類の植物を食べますが、親が積極的に食べ物を与えたり教えたりすることはありません。しかし、群れによって食べ物のレパートリーが異なっていることがあります。親など群れのメンバーが食べるものに関心を向けて同じものを食べてみるからです。一方、ネコであれば親が捕まえてきたネズミなどの獲物を食べることによって何を食べるか学ぶことができます。一般的に植物を食べる動物は直接与えることはせず食べ物のある場所に子供と一緒に行くだけです。一方、動物を捕まえて食べる動物は、獲物を与えたり、時にはまだ生きている獲物を持ってきて子供に殺させたりします。動物を探し出して捕まえ殺すことは子どもには難しいことだからです。
   このように、何を食べるべきか生まれながらに知っている程度、生まれた後に学習する程度と学習の仕方は動物の種類によって異なります。「高等」な動物ほど学習の割合が高いとは一概に言えず、食べるものの種類や群れ生活の程度にも左右されます。動物が適正なカロリーや栄養バランスを本能的に「身体でわかる」という考えは、離乳したばかりのネズミに様々な食物を与えると、教えられなくても必要なものを必要なだけ食べたという実験(いわゆるカフェテリア実験)によって証明されたかのように言われますが、実際には何らかの学習が必要です(注1)

動物園と野生の違い
   動物園ではなぜ、動物に必要なエサが何か考え、与える量をコントロールするのかという点に戻りましょう。上で見たように、動物は何を食べたらよいか親からあるいは群れ生活の中で学ぶことが多いのですが、動物園では親から離して人工飼育することも珍しくありませんし、群れで飼育するのが難しい場合もあります。何を食べればよいか「自然」に学ぶ機会が限られます。また、親に育てられない動物は何を食べるべきか生まれながらに知っていますが、完ぺきに知っているわけではありません。例えば、死んだウミガメの胃から人間が捨てたポリ袋が大量に見つかることがあり、ウミガメを死に至らしめている可能性が指摘されています。ウミガメがクラゲと間違えてポリ袋を食べてしまうためです。よくテレビでも紹介されるように、母親は砂浜で産卵した後すぐに海に戻り子ガメを育てることはありません。子ガメは独力で成長していきますので、何を食べるべきか親から学ぶ機会がありません。透明でふわふわと浮いているものを食べるという性質を持っているのでしょう。つい最近になって人間がポリ袋を発明するまでは、そういった特徴を持つものはクラゲだけだったでしょうから、大雑把な特徴把握で食べるものと認識しても問題なかったでしょう。このように、もともとその動物が棲んでいた環境に無いものを区別する能力が進化することはありませんから、生まれながらに食べるべきものを知っている動物でも、人間がよく知らずにいろいろなエサを与えてしまうと、食べられないものを食べてしまうことがあります。
   では、食べる量についてはどうでしょう。野生の動物には、太りすぎたように見える個体はいません。野生の動物は適正な食事量をわかっていて、食べすぎないようコントロールしているかのようです。生物の進化という観点で見ても、食欲をコントロールできずに食べ過ぎてしまう個体は病気になりやすいため淘汰され、ちゃんとコントロールできる個体が生き残るように思えます。しかし、食べすぎないようにする能力もまた、動物の種類によって異なります。人間でもそうであるように、太りすぎるというのは脂肪をため込みすぎた状態です。これは、食べすぎた食物を脂肪に変換する能力を持っているためです。そもそも、脂肪に変換して貯える能力がなければ肥満に悩むことはありません。この能力を持っている理由は、皆さんも想像がつくように、食物が不足した時の備えです。動物園と違って野生の世界では、明日も今日と同じように食べるものがあるとは限りません。食べることのできるときには多めに食べて貯えておく方がよいのです。体脂肪率の少ない筋肉質の身体は、明日の食べ物に困ることのない豊かな社会だからこそ優れた体型のように言われますが、野生の世界では危険な状態です(注2)。    ここでもやはり、当座必要な量よりも多めに食べて貯めこむ能力は動物の種類によって異なります。例えば、供給が不安定な食物に依存している動物では貯めこむ能力が必要です。ライオンのような肉食の場合、数日間獲物が取れないとういうことは珍しくないようです。一方で、シマウマのような草食動物では、今日目の前に広がっている草原が明日の朝には消えているということはありません。また、季節による食物の変動が激しい地域では、例えば、雪に閉ざされる冬の前にできるだけたくさん食べて脂肪を貯える必要があります。皮下脂肪は体温が逃げるのを防ぐ役割も果たしてくれます。
   このように、野生の動物が肥満になりえる可能性はあります。それでも、明らかに太りすぎという個体がほとんどいないのはなぜでしょう。動物の種類によって様々な事情があるのですが、食べ過ぎることができるような食物豊富な状態は長くは続かず、野生において食物を探して手に入れるためには歩き回るなど体を動かしてエネルギーを消費することが不可欠だからです。一方、特に運動の必要もなく栄養豊富な餌が常に手に入る動物園のような状況では、飼育員が餌の量をコントロールしないと肥満になってしまう動物は珍しくありません。

人間も動物か
   上で述べたように、欲求は動物が生きていくために必要な心の働きとして進化しました。ですから、欲求に従って行動することが動物の生存と繁殖を可能にしていると言えます。しかし、それはその動物が進化した自然の環境の中でうまく働くのであり、例えば動物園のような環境ではうまく働くとは限りません。では、人間はどうでしょうか。
   人間は本来、何をどの程度食べるべきか「身体」でわかる能力を持っているが、人工的な生活の中でその能力が鈍っているという考えもあります。確かに、われわれは食べすぎて気分が悪くなったり、足りない栄養が自然にほしくなるように感じることがあります。しかし、その能力には限界があるという方が確かでしょう。人間の進化した環境が、おいしい食べ物が満ち溢れ、苦労せずに手に入る楽園のような環境なら、何をどの程度食べるべきか「身体」でわかる能力が進化したかもしれません。なぜなら、食べ物の種類や量をコントロールできずに肥満し、動きが鈍くなったり病気になったりするようでは世代を重ねるうちに淘汰されてしまうからです。しかし、人間が進化した環境は楽園ではありませんでした。食べるものが豊富な時にはたくさん食べて脂肪として蓄える能力が進化したのでしょう(注3)
   では、身体に必要なものを選択して食べる能力についてはどうでしょうか。動物が食べることのできるものとできないものを選択するときに大きな役割を果たすのが、味覚と嗅覚です。親によって育てられる動物は、親に与えられた食物の味や匂いを学習して食べることのできるものを憶えていきます。また上で述べたように、ある特定のものを食べた後に体調が悪くなると次からその匂いや味を避けるという学習も重要です。学習の役割が大きいとはいえ、人間が特定の味への好みを生まれ持っているようです。よく知られているのが甘味への好みです。乳児でも甘味は好んで受け入れますが、苦味は拒絶します。これはもちろん、甘味は生物のエネルギー源である糖分を検知した信号であり、苦味は有害物質を検知した信号だからです。このような特定の味覚への好みや回避は多くの動物でも見られるものであり、進化の過程で獲得されたものです。ただし、あくまで人がもともと住んでいた自然環境において進化した好みであることを忘れるべきではありません(注4)
   現代社会では、栽培されたサトウキビから抽出された砂糖を多くの食品に添加することにより、甘いものが豊富にあります。しかし、自然の山や森で甘いものを見つけるのは簡単ではありません。比較的まとまって存在しているのは、限られた時期に限られた場所に成るよく熟した果実(それとて品種改良された現代の栽培品種には劣ります)や蜂蜜でしょう。これらを手に入れるのには場所や時期の記憶と出かける労力が必要です。蜂蜜に至っては危険性もあります。また、タンパク質や脂肪分も現代人が過剰に取りがちな食品です。自然の環境でタンパク質や脂肪分がまとまって存在しているのは、もちろん動物の肉です。しかし、スーパーでパックにされている肉と違って、生きた動物を捕まえるのは銃を持たない人類にとって、とても手間のかかる面倒なことです(猟銃の発明はわずか数百年前です)。すなわち我々は、身体にとって必要でありなおかつ手に入れるのが簡単ではないものに強い欲求を持つように進化したわけです。それほど魅力は感じないので手に入れるのが面倒な甘いものや肉はいらないという人間よりも、強い魅力を感じる人間の方が生き延びて子孫を残す可能性が当然高かったのでしょう。

「楽園」での生活とセルフ・コントロール
   人間の現在の生活環境、特に日本を含む先進諸国のそれは、人間が進化してきた野生の環境とは明らかに異なります。人間は動物園のような人工的な環境で生活しています。子どもなら、飼育員のような役割をしている親が食べるものをコントロールしますが、大人は自分で自分のコントロールをしなければなりません。
   現代の消費社会が目指しているのは、栄養豊富な食物が安い値段で手に入る「楽園」です。しかし、そのような楽園だからこそ自分で自分をコントロールすることが必要なってきます。そのことを信田(文献1)はうまく述べています。信田はアルコール依存症のメカニズムを一般向けに説明していく中で、アルコール問題は資本主義の勃興発展とともに深刻化していったと述べ、「・・・このように圧倒的な量の不足、供給の不足が摂取量の抑制となっていた。つまりアルコール依存症になるほどの量を一般庶民は摂取できなかったのだ。ところが、産業革命によってアルコールの製造も工業化され、大量生産が可能になり、商品としてのアルコールが流通するようになった。そして、供給量の増加にともなって価格も抑制され、安価なアルコールを購入することができるようになったのだ。」すなわち、その気になれば毎日でもお酒が飲めるという夢のような現実が生まれたのです。ここで初めてアルコールのコントロールが大きな問題となります。このような問題はアルコールに限りません。「資本主義は物の大量生産を可能にした。物が溢れ、消費が喚起されることで資本主義経済は発展していく。人には有り余る物に囲まれながら、欲望が絶えず喚起されながらも決して欲望のままに行動しないというセルフコントロールが何より要求される。たえざる自己点検、自己観察する自己、いわゆる『再帰的自己』の形成である。とすれば、人間が長い歴史を通して一貫して望んできた、物が溢れる『豊かさ』こそがセルフコントロールを要求していくことになる。この困難さを近代に生きる人々は背負っているのだ。」(文献1 pp.152-153)

進化心理学の基本的な問題意識
   ここまで述べたことは、進化心理学的な問題意識に基づくものです。生物の身体が長い進化の歴史の中で、生息する環境の中で上手く生きていけるように進化したことは多くの人に当たり前のこととして理解されているでしょう。チーターの身体が草原で速く走り狩りをするために進化したことも疑問の余地はないでしょう。心の働きもまた、上手く生きていけるように進化したはずです。なぜなら、心の働きなしに身体を上手く使うことはできないからです。いくらチーターが速く走り狩りをする身体を持っていても、肉の味は嫌いだから草を食べたいとか、逃げているものを追いかけるのは面倒、と思っていては「宝の持ち腐れ」です。もちろんチーターも、親が持ってくる肉の味を憶え、親の狩りを見て狩りの仕方を学びます。とはいえ、チーターをヒツジの群れで育てれば草が主食になるかといえばそんなことはありません。生まれ持っている好みや行動の傾向が学習を制約します。
   心の働きが進化によって形作られたという考え方をすると、「××をするように心が進化したなら、××するのは当然である」といった言い方がよくされます。例えば、「男性が浮気したいという欲求を持っているのは、本能的なものであり仕方ない」といった具合です。男性が女性に比べて浮気しやすいのは生まれ持った傾向であるかどうかは異論もあるところですが、例えそうであっても「仕方がない、してもかまわない」とはなりません。進化の中で形成されたということは、「かつて人間が進化した環境ではそういった性質を持つ個体の方がそうでない性質を持つ個体より子孫をより多く残した」ということにすぎません(厳密には個体ではなく遺伝子が増えるかどうかを考えるべきですが、概ねこのような理解で充分です)。このことは次の二つのことを示しています。一つは、現在の人間の住んでいる環境が「かつて人間が進化した環境」と異なるなら、その性質が現在もうまく働くとは限らないということです。二つめは、「子孫をより多く残す」ことに大きな価値を置かない場合にはその性質が肯定されるとは限らないということです。進化心理学は価値判断をしませんから、「男性が浮気したいという欲求」を学問的に「してもかまわない」と肯定することはありません。上で述べたように、人間には進化の過程で形成された甘味を好む強い傾向があることは多くの研究者が認めていますが、「甘いものを好きなだけ食べてもかまわない」「食べても仕方がない」とはなりません。むしろ、現在の人間の住んでいる環境が「かつて人間が進化した環境」と異なるので現在はうまく働いていない、としてコントロールした方がよい、となります。実際にコントロールできている人も多いので「仕方がない」問題でないのは明らかです。

現代社会と欲求のコントロール
   味の好みという、比較的よく知られた問題をなぜ取り上げたかというと、他の欲求も基本的な問題は同じだからです。現代の日本では経済活動の国や自治体による規制・統制は撤廃し、国や自治体によるサービスもできるだけ市場メカニズムに委ねる流れが強まっています。企業に自由な競争をさせて、成功するかどうかは消費者の判断に任せる方がよいというわけです。そのおかげで「豊かな」社会になったというのは事実でしょう。しかしながら「食」に関しては様々な規制がありますし、多くの人はそれが望ましいものと考えています。それは、我々の判断力に限界があることを知っているからです。私たちには腐った果物やあく(例えば、シュウ酸)の多い野菜を判断する嗅覚や味覚を持っていますが、残留農薬、化学添加物を検知する感覚に優れているとは言えません。私たちの感覚能力は、農薬も化学添加物もない時代に進化したためです(注5)
   自分の感覚や食べたいという欲求だけに頼らずに食に関する知識を得ることが推奨されていますし、テレビ、雑誌、インターネットでも食品の栄養や安全性の情報があふれています。ここまで述べてきたように、自分の感覚や欲求だけに頼ることができないのは、我々人間の感覚や欲求が現代社会に必ずしも適応していないためであり、それは「食欲」に限ったことではありません。しかし、他の欲求は「食欲」ほど我々に意識されることはありませんし、知識を得なければならないとも思われていません。そもそも、欲求という心の働き自体、それほどよくは知られていません。人間の欲求がどのような必要性で進化したのか、現代社会ではなぜうまく働かないのか理解することが重要です。 欲求とは何か、改めて考えてみましょう。


引用文献
1   信田さよ子  2000  依存症  文藝春秋

注1    例えば、Furguson(2000)は次のように述べている
     Galef and Beck(1990) showed that when infant mammals stop suckling, they need to learn which foods are safe. Although many people think that young animals and infants instinctively select the appropriate foods to eat to fulfill their nutritional needs, this is not so. Studies called "cafeteria feeding experiments" show that when weanling rats are presented with a wide selection of foods in the laboratory, their food selection is not adequate even to maintain their body weight, to say nothing about fulfilling their nutritional needs. ---------.

   ---------. the researchers concluded that social enhancement of dietary self-selection can occur in the laboratory, and that social learning is presumably the method by which animals in nature acquire the necessary information and skills for eating foods that are safe and nutritional.“ ("Motivation" Oxford University Press, p.152)

注2    筋肉の多い身体はいざというとき強い力を発揮できるので生存競争で有利なように思えますが、筋肉が多いと基礎代謝量が高くなるため、同じような生活をしていても多量のエネルギーを必要とします。車でいえば、同じ50kmの速度で走るのに排気量3000ccのエンジンの車の方が排気量1000ccのエンジンの車より燃費が悪いようなものです。野生の動物がすべて筋肉隆々な身体に進化するわけではありません。

注3    例えば、Pinel(2003)は次のように述べている「・・・進化の過程で不安定な食糧供給が、生存に対する大きな脅威の1つであった。その結果、最も太った個体は高カロリーの食事を好み、食事があるときに最大限まで食べ、体脂肪の形で過剰なカロリーをできるだけ多く貯蔵し、貯蔵カロリーをできるだけ有効に利用した。このような特性を持たない個体は食事が少ない場合に生存が難しいため、上記のような特性が将来に伝えられたのである。」(「バイオサイコロジー」西村書店、p.242)

注4    例えば、Rita et al. (2000)は次のように述べている「人間は、特定の味の好き嫌いをプログラム化されて生まれてくる。乳児でさえ、甘い味に対しては口を動かしたり顔の表情が快の表情に変わるなどの反応をする(Steiner,1979)。苦い味に対しては、顔を背けたり、嫌悪の表情に変化する。ゴリラやサルの他、多くの動物も同じような反応を示す。食品会社は、このような人間の甘いものを好む性質から、甘い食品を作り、多くの人の食べすぎに拍車をかけているのである。」(「ヒルガードの心理学」ブレーン出版、pp.665-666)

注5    農薬や化学添加物にあふれた現代社会に住んでいると、農薬や化学添加物を検知する能力が進化しつつあるように思うかもしれませんが、そうとは限りません。進化とは、そういった能力を持つ遺伝子を持つ個体が、能力を持たない個体より多くの子孫を残すことによって遺伝子の頻度が変化する結果です。これは、能力を持たない個体が病気や中毒で健康を害するという状態が何世代も続くことを意味しています。能力を持たない大多数の現代人がそのような状態を甘受する訳ありません。農薬や化学添加物を測定する機械を発明し、農薬や化学添加物を規制する法律を作るでしょう。実際に私達がしていることです。


神戸松蔭女子学院大学心理学科   待田昌二
2014年10月