神戸松蔭女子学院大学図書館 今月の展示

「義経平泉に死せず」 (2005年11月1日〜2005年11月14日)

 『平家物語』では、平家追討の殊勲者源義経の末路を描いて、「吉野の奥にぞ籠りける。吉野法師に攻められて奈良へ落つ。奈良法師に攻められてまた都に入り、北国に掛りて終に奥へぞ下られける云々」(巻十二「判官都落」)と誠に素っ気なく、その最期談はあえて欠落させています。後世、義経をして不運の英雄として同情し、判官義経に発して弱者愛惜の念が判官びいきなる語でもてはやされるなど、全て後の『義経記』等の悲運義経像造型によるところが大と言えます。
 父義朝が討たれるなど不幸な幼年期の鞍馬を抜け出ての逃避行同様、再び奥州平泉の藤原秀衡を頼ったものの、頼朝の探索厳しく、文治五年(1189)閏四月卅日に自害に追い込まれたなどは『義経記』の圧巻です。義経の首は頼朝の許に送り届けられるが、鎌倉の郊外腰越での首実検の後、腰越状事件の時同様、最後まで鎌倉に入ることを許されず今の藤沢市に葬られたと伝えられています。
 あたかも時義経没後五百年、『奥の細道』の旅の途次、芭蕉は義経最期の地、平泉高館(岩手県平泉町)に立ち寄り、「さても義臣すぐつて此城に籠り、功名一時の草むらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたり云々」と往時を追憶、「夏草や兵どもが夢の跡」の句を手向けています。判官びいきここに極まったの感にうたれる絶唱です。
『奥の細道』の旅(元禄二年・1689)に先立つこと約二十年、史書『続本朝通鑑』(寛文十年成立)に、義経は平泉を脱出し蝦夷(えぞ)が島(北海道)に渡ったとの俗伝が載りますが、芭蕉がこの種の情報に接した形跡は見当りません。
雑史『義経勲功記』巻末「義経渡海蝦夷事」など、江戸中期以後は義経北行説がもてはやされて錦絵や絵双紙の恰好の題材となっており、果ては韃靼(だったん)(モンゴル)に渡ったなど英雄不死伝説にとどまるところはありません。悲運義経の生涯に栄光の「上がり」はあるのか――「新版源氏栄義経双六」(一猛斉芳虎画)等は何のためらいもなく高館の次を義経蝦夷渡海や蝦夷人の表敬場面で結んでおり、非業の最期などどこ吹く風といった態です。 明治以降、日本男児の意気宣揚とばかり、義経・ジンギスカン同一人説が主張され、内田弥八訳述『義経再興記』(明治18年初版)や小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』(大正13年初版)等が版を重ねたことは岩崎克己『義経入夷渡満説書誌』(昭和18年)に記されています。義経奥州平泉に死せず――まわりまわって近代日本の大陸開拓・侵略の後ろ楯になったなど只事でなく、これでは義経浮かばれません。
詳しくは、「ネットミュージアム兵庫文学館・神戸で平家を読む」を参照してください。

                    (解説 文学部国文学科 信太 周教授)

(展示)「平家物語」 、「義経記」「続本朝通鑑」小谷部全一郎「成吉思汗ハ源義経也」岩崎克己「義経入夷渡満説書誌」「錦絵日本の歴史 神々と義経の時代」白山友正「松前蝦夷地義経伝説考」、 複製錦絵「源九郎判官義経 蝦夷人」(一英斎芳艶画)、 複製錦絵「源義経」(朝桜楼国芳画) ――何れも本学図書館所蔵