神戸松蔭女子学院大学図書館 今月の展示

子規の絵と画友の絵 (2004年5月15日〜6月20日)

 正岡子規の大食漢ぶりは有名だが、それに劣らぬほどよく知られているのが、晩年に熱中した水彩画である。もちろん晩年の子規といえば、約八年間も結核性の脊椎カリエスで寝たきりに近い状態であったわけだし、現代のように重病人の介護制度が整っていたわけでもない。しかも病臥する子規ひとりが稼ぎ手である三人暮らしの正岡家は決して裕福とはいえなかった。だからいくら絵を描くのが好きだといっても、職業モデルを雇うとか、美しい風景を見に出かけるとかいった「贅沢」は、子規には許されないことだった。
 とはいえ現代の私たちから見ても、子規は明治人にしてはかなり恵まれていたと感じられる。それは、多くの友人知人が親身になって彼の世話をし、彼のために、好物の果物や地方の珍味、絵の素材になりそうな草花や小鳥や人形などを、各地から労を厭わずに差し入れているからである。子規の随筆を読んでいると、こんなものをもらってかえって処置に困ったのではないか、普通の家にこんなものを収納する場所があるのだろうか、などと余計な心配をしたくなるほど、正岡家には頻繁に多様な贈物が届いている。
 実は、日本の絵画史に占める子規の位置などなにほどのものでもなく、ここで云々するには値しない。けれども彼が、中村不折、下村為山、浅井忠、といった画家たちと密接な交流をもち、その交流を通して自らの芸術論を生成させていったことは、日本の文学史において決定的に重要だといわなければならない。横顔の目の形が正面の顔の目の形とは違う、という現代では素朴すぎるような事実を、もし不折や為山に気づかせてもらわなかったならば、子規は「写生」の大切さに開眼しなかったかもしれないのだ。
 不折、為山、忠らは皆、日本画、洋画をともによくし、不折は書家としても一家をなしたし、忠の工芸デザインも高く評価されている。そういうこともあって、子規も文学同様、美術でもいくつものジャンルに手を出した。だが身体の自由がきかず、しばしば激しい発作に襲われるという条件は致命的である。子規の制作は、自ずから草花や小物類を水彩で描くことが中心となった。マンガのようなユーモアたっぷりの人形や食物、見る者を粛然とした思いに誘う厳しい表情の自画像、ひとつひとつ慈しむように柔かく描かれた花々。すべて子規の人格の反映といえる。私見では、番の鶉の絵が絶品。筆触の優しさがいじらしく、忘れがたい。

漱石の絵と画友の絵 (2004年5月15日〜6月20日)

 夏目漱石に絵を教えたのは、漱石より一回り以上若い画家、津田青楓である。だから青楓は正確にいえば、漱石の画友ではなくて師匠なのだが、年齢に差がある気安さのためか、絵画では素人の漱石が玄人の青楓の作品を酷評するようなこともあったらしい。もっとも青楓の方も、「漱石先生」の絵を遠慮なくこき下ろしたそうだから、これらは二人の親密さの証明と受けとめるのが妥当だろう。最晩年、『明暗』を執筆中の漱石が、一日の半分を山水画と漢詩の制作に充てて精紳のバランスをとっていたことは、周知に属する。また、ラファエル前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレーの作品「オフェーリア」(1)が、教え子の藤村操の華厳の滝での自殺(2)とともに、初期の漱石に水底の死者のイメージを醸成し、そのモチーフが『草枕』などに認められることもかなり知られている。
 だが今回、私は青楓の著『画家の生活日記』(大正十三年、弘文堂書房)によって、大正二年の七月下旬、漱石が油絵を描くためにその画材を購入していたことを初めて知った。漱石は同月中旬に『行人』の最終章「塵労」を書き始めたばかりである。『行人』と油絵。どこか通底するものがあるのだろうか。それとも同月二十五日から『国民新聞』に連載が始まった弟子鈴木三重吉の小説『桑の実』に「青木さん」という洋画家が主要人物として登場することが、何らかの刺激になったのだろうか。
 「青木さん」といえば、『桑の実』の作中人物とはほとんど正反対の人物だが、当時、漱石が注目していた画家に青木繁がいる。漱石が直接青木繁という破天荒な男に会っていたら印象が変わっていたかもしれないが、少なくとも青楓宛の書簡では、漱石は青木繁を「天才」とまで呼んでいる。青木繁の代表作の一つ「わだつみのいろこの宮」に対しても、漱石は「文展と芸術」(東京朝日新聞、十月十五日〜二十八日)のなかで次のような讃辞を送っている。
自分はかつて故青木氏の遺作展覧会を見に行った事がある。その時自分は場の中央に立って一種変な心持になった。そうしてその心持は自分を取り囲む氏の画面から自と出る霊妙なる空気の所為だと知った。自分は氏の描いた海底の女と男の下に佇んだ。自分はその絵を欲しいとも何とも思わなかった。けれどもそれを仰ぎ見た時、いくら下から仰ぎ見ても恥ずかしくないという自覚があった。こんなものを仰ぎ見ては、自分の人格に関わるという気はちっとも起らなかった。自分はその後いわゆる大家の手になったもので、これと同じ程度の品位を有つべきはずの画題に三四度出会った。けれども自分は決してそれを仰ぎ見る気にならなかった。青木氏はこれ等の大家よりも技倆の点に於ては劣っているかも知れない。ある人は自分に、彼はまだ画を仕上げる力がないとさえ告げた。それですら彼の製作は纏まった一種の気分を漲らして自分を襲ったのである。して見ると手腕以外にも画に就て云うべき事は沢山あるのだろうと思う。

 (1)ロンドン、テート・ギャラリー蔵。漱石は留学中ここで見ている。一九九八年、兵庫県立近代美術館でテート・ギャラリー展が開催されたとき、この作品も出品された。
 (2)昨年五月二十二日は、彼が自死してからちょうど百年目の日であった。


(総合文芸学科 國中治)