このたび、学長としてまた学院の院長として松蔭のために尽くしていただきました黒澤一晃先生が2006年3月に本学を退職されました。これを機会に質疑応答の形で、同窓生の皆さまに宛てて先生からいろいろな思い出を書いていただきました。

 
 1 黒澤先生、長い間ありがとうございました。
    在職期間はどのくらいになりますか?

 昭和30年(1955年)4月からですから、最後の定年延長の数年を入れると、51年になります。卒論だけを残して大学院の修士課程を終了したときですから、たしか23歳のときでした。最初は松蔭中学・高校の教員として、次いで大学・短期大学へと移りました

 
 
2 その間、いろいろとご苦労されたと思いますが?

   やはり、大学・短大の統合移転と地震時の対応がその最たるものでした。もともと短期大学は青谷にあり、大学は垂水の地に設立されましたのですが、最初はどうしてもバラバラの運営でした。これではいけないと思っていた時に、六甲の土地を買わないかといった話があったのです。正に天の声でした。そして、長い買収交渉のあと、昭和55年から56年(1980~1981年)にかけて、短大と大学の学舎を現在の六甲の地に統合移転しました。

 これまでそれぞれの地で頑張ってきたわけですから、それぞれの方の思い出も思い入れも一入(ひとしお)です。正直言って最初は、先生方のあいだにも今の土地から動きたくないといった意見もありました。それぞれに特異な苦労も思い入れもあったわけです。例えば、不便なところにあった大学では、入試当日に雪が降ったりすると、これで受験生の欠席が10人は増えたのではないか? といった心配すらあったのです。便利なところにあった青谷の短期大学では、校地があまりにも狭かったために、昼食時の混雑は目を覆いたくなるほどのものでした。当時の学生諸君には申し訳ない気持ちで一杯です。
 
移転についての最大の問題は、松蔭の中学・高校出身者を除いて、それまで全く何の接触もなかった学生諸君の理解を得ることが出来るか? ということが目前の重大問題でした。ちょうど私は、短大の学生部長をしておりましたが、大学の方の学生部長であった故八代祥吉先生と密接な連絡を取って、万事遺漏のないように努めました。その間両大学の学友会会長の完全な理解と支持が得られたことが、合同運営成功の最大のポイントでした。今でも感謝しています。

 先ずその前に、経営の問題がありました。手広く豪快にやっておられた八代斌助理事長(院長、聖公会総裁主教)の急逝のあと、銀行等との折衝も大きな仕事でした。現状認識と士気鼓舞のために給与の一時カットを提案するなど、荒療治もやりました。それが終わった直後に六甲の土地の話があったのです。「給与カットまでやった直後に、よくもまぁ、そんな提案が出来るなぁ」といった一般教員の声をよそに、友枝先生と私の直感的な反応は「これはやるべし」というものでした。
 それからは、土地会社との折衝、竹中工務店との打ち合わせ、近隣の方々に対する建築工事了解工作等々も大変でしたが、何よりも心を痛めたのが上述のように、学生間の融和問題でした。

 竹中工務店関係者の誠意は今なお嬉しく思うところですが、今でも頭の下がる思いをするのは、当時神戸市の市会議員でおいでだった貫名初子先生の、終始変わらぬフェアーな姿勢でした。いろいろとご助言もいただきました。感謝の気持ちで一杯です。

 上に述べたように、大学・短期大学の統合は何の問題もなく粛々と行なわれました。合同の前に青谷と垂水で交互に会議を行なっていたとき、あちらでの会議の回数が多いといった阿呆なことを言った先生がいたのに反して、学生の反応は実に大人(おとな)のそれでした。

        六甲移転に際し、当時の友枝学長の提案で、新しい学歌を作り(杉山平一氏作詞、団伊玖磨氏作曲)、校庭に素晴らしい彫刻を設置し(朝倉響子氏製作)、チャペルにパイプオルガンを設置 (マルク・ガルニエ氏建造)することが出来たのもいい思い出です。陳舜臣先生を特任教授としてお迎えするようになったのも移転にからむヒットでした。 
 
その後、内容の充実のための努力とちょうど若年人口の増大と進学率の上昇にも助けられ、本学進学希望者の数は着実に増大し、今では学部の数も増え、大学院も併設し、今日のような総合大学に成長したのを慶んでいます。

 
 
    その間、いやな思いをなさったことはありませんでしたか?

     それは私も人間ですから、瞬間的には腹も立て大声で怒鳴っていたこともありましたが、基本的には同僚諸氏の信頼の下、実に楽しい遣り甲斐のある毎日を送らせていただきました。例えば学長の時に、私学としては真っ先に大学入試センター試験(当時は共通一次試験と言っていました)への参加を表明しました。やはり最初は先生がたのなかには賛否両論あり、グズグズした空気もあったのですが、基本的には、皆さん、私を信頼して下さったわけです。今日が勝負という教授会当日、「私はこれに賛成である。今日はどれだけ時間がかかろうと、必ず結論を出す」と言って会議を始めたところ、何と20分も経ずに賛成が得られました。決して恫喝したような覚えはないのですが、ひょっとしたら、その日はふんぞり返って皆さんを睨み付けるぐらいのことはしていたかもしれません。「とことん議論をするから、さぁー来い」といった姿勢がよかったのかもしれません。あまりにも簡単に決まり、ある意味で拍子抜けをしたことを覚えています。ただ、これはあまり威張れたことではないのですが、試験初日にテレビのインターヴューに来てくれた若いテレビカメラマンに、「先生、お見合いの写真ではありませんので、もう少しリラックスしていただけませんか?」と言われてしまいました。
また、決して手前味噌で言うわけではありませんが、昔の松蔭を知る実業界の友人から、「松蔭も全国区の大学になったねぇ」と言ってもらえたときは、本当に嬉しく思いました。参議院の全国区云々が話題になっていたときのことです。
      
ともかく、良き補佐役の方々に恵まれ、持てる力を――それは知れたものであったと思うのですが――思う存分発揮させていただきました。語学教育センターの設置、国際交流の推進、その一環としての思いきった外国人教員の登用等、いずれも今思えば、大変だったが遣り甲斐のある仕事でした。若かったから出来たのか若いけれども出来たのか知りませんが、私が学長をさせていただいたのは50歳代の8年間だったのですよ。  国際交流の一つとしてのアメリカからの留学生の受け入れについては、在学生のみならず卒業生の方々の支援をいただきました。この場を借りて御礼申し上げたく存じます。 
 次に大きな思い出は、阪神淡路の大地震でした。ともかく大学に出勤してみると、ほんの4、5人の職員しか出勤していません。何時まで経っても教職員が出勤して来ないのに業を煮やした私に、ある職員が「でも先生、六甲道の駅が無くなっています」というではありませんか! 「駅が潰れていると言うなら分かるが、駅が無くなっているとは何事か ! といった会話が交わされるほどの未曾有の大事件でした。

   大学での処理を済ませて大学会館に駆けつけ、デラウェア大学から来ていた十数名の留学生に慰めの言葉を述べ、たしか “We will never let you die from hunger.”といったようなこ を言ったと思います。笑わないで下さい。私のような戦争を経験した世代の人間の一番の関心事は、衣食住のうちでやはり食でした。ところが、すでに留学生受け入れ担当の松平陽子先生が何十人分もの握り飯を持って会館に駆けつけてくれていたのです。これには正直感激しました。なおこの時、留学生諸君は健気にも、「これは、日本・日本語学習に来ている我々にとってまたとない機会であるので、もう少し日本に留まって震災に関する諸々のことを勉強したい」と言ってくれるのでした。しかし地元のわれわれこそ、停電などで情報が得られなかったのですが、この大地震のニュースは即刻全世界に報道されており、子供たちのことを気遣うアメリカの親御さんたちから、在日米大使館を通じて学生諸君の安否の照会があり、けっきょく彼らは急遽帰国することになりました。決壊道路を迂回しながら伊丹空港に辿り着くのに優に十時間を要したという報告を受けています。
     ただ、大学生のなかに重傷者が2名と、中高生のなかに2名の犠牲者がいたのは返す返すも残念なことでした。改めてそのご冥福を祈りたいと思います。

      なお、ちょうどその年オハイオ大学から交換教員として松蔭に来ていた若いアメリカ人の先生が、任期を終えての離任の挨拶のなかで「自分たち、倫理・哲学を専攻する者にとって、徳といった抽象概念の説明には常に苦労するのですが、それには『ソクラテスとか孔子といった有徳の人を見よ』と教えています。しかし、この度の大災害に際して松蔭の先生方の取られた対応には、本当に頭の下がる思いがしました。自分の家族のことは後回しにして、大学のため、我々留学生のために尽くして下さいました。この経験は、これからの私の長い人生において、何にも代えることの出来ない教訓となって残ることでしょう」と言ってくれたことでした。
 また、大学会館に関しては、3
月まで青森医療団のヴォランティア医師たちに対して、2階の個室ならびに和室を提供し、ご近所の烏帽子 (えぼし)中学校の卒業予定学年生に対して3月まで臨時の教室をクラス提供できたことは嬉しいことでした。また、披露パーティーを直前にしていた中高の体育館を、地域の犠牲者の遺体仮置き場に提供して感謝されたことは、学院が地域社会のために貢献できた一例として述べておきたいと思います。
 
 
なお、地域社会という言葉を使ったついでに述べておきたいのは、灘中央郵便局の皆さんの健闘ぶりでした。予定していた1月末の入試を控え、一日でも早く申し込み願書を入手したいという我々の願いに応えて、「配達はできないが、取りに来ていただけるなら」ということで、石屋川方面から迂回して中央局まで行ってみると、紙縒り止めにされた350余通の願書がきちんと整理されていました。賛辞を呈するとともに改めて感謝したいと思います。

 

 

  4 社会的背景・時代の流れとともに松蔭も変わり、

    松蔭の学生たちの気質も変わってきたかと思います。

       その点はどのように思われますか?

 それは、変わらなかったら可笑しいと思います。それは皆さんもご家庭で経験されていることだと思います。それは、こうあってくれれば嬉しいといったことは無数にあります。でも変わっていないもので良いものも沢山あります。それは松蔭の学生諸君の優しさと明るさです。松蔭の学生諸君の良さは全く変わっていないと思います。実は私が、退職間際の1年半ばかり頚動脈・頚椎の故障に悩んでいたのですが、最後の授業のときに、「先生お身体をお大事に」と言ってくれた学生諸君の優しい言葉には本当に感謝しています。

 私は、常に、自分は松蔭によって育てられた人間であると公言しているのですが、それは決して先輩や同僚のみによるのでなく、自分が教えている学生・生徒諸君の言動・生き方によっても育てられたという意味です。


 
5 少子化が心配されていますが、松蔭をもっとアッピールするには、

   どうすればよいと思われますか?

 もちろん大学として、すこしでも魅力的な学部・学科創りに常に努力すべきですが、(これは常にやっています)その前に、やはり卒業生が「松蔭に来てよかった」と思ってくれるような教育をすることが必要ではないでしょうか? また、それが松蔭の下手なところであるかもしれませんが、私は今更ジタバタして宣伝だけに力を入れても仕方がないと思っています。何事もコツコツと地道に誠実にやること、これ以外に何もないと思うのです。

  教育に手抜きはいけません。これはここで言うべきことではないかもしれませんが、学生窓口の受付時間についてももっと学生の都合を考えてやらなければなりません。時間割にしても、先生の都合よりも学生の都合を優先せねばなりません。これからの時代はこのままではやっていけないと思いますよ。また、大学説明会も必要ですが、それ以上に、学生が教育実習でお世話になる時には、その専門担当の教師が交代してでもその学生の側面指導のためにその学校を訪問すべきです。学生はある面ではびびるかもしれませんが、ある面でどれだけ心強く思うことでしょう。

 6  今から英語を勉強をやり直そうと思っている方々に対する

    アドヴァイスを何かいただけませんか。

 日本での外国語教育は、教養としての側面が強調され過ぎていました。私が20年前に語学センターを立ち上げたのもその反省に立ったものでした。しかし、今では昔風のやり方も決して悪くはなかったというか、その面を忘れてはいけないと思っています。どちらも必要なのです。ただ、学習方法については最新の研究成果を取り入れ、またもっと専門家の意見を取り入れていただきたいのですが、21世紀にあって語学学習が頭脳の訓練だけでよいという筈はありません。そのため松蔭では、ネイティヴの先生を増やし、彼らに接する機会を増やすように努力して来ました。ただ学習者側に、その機会を活用しそれをマスターしようとの積極的な意欲がなければ駄目です。地道に努力しなければなりません。また、動機付けが必要だと言われますが、今日では新しい言葉を学習する動機付けはどこにでも転がっているのではないでしょうか?
 言葉を換えれば、
知的な好奇心に裏付けられけた動機付けが必要なのではないでしょうか?年齢をとってからでも出来ますか? と問われれば、正直言って、若ければ若い方がよいのに決まっている、と答えましょう。例えば、音楽では絶対音感というものがあるそうですが、語学でも同じだと思います。ただ、そんなことを言っておれば何時まで経っても何も出来ないことになります。やりたいと思った時には、いつ何時でも思い切ってそれをなさっては如何でしょうか? その時には是非松蔭のことを思い出して、相談下さい。ここで、うろ覚えの英語の格言を2つ足して、英語の格言を考えてみました。It’s never too late to start afresh. (何歳になっても、物事をやり直すのに、年齢(とし) をとりすぎていて遅すぎることはない)というのは如何でしょう。

 
 
7  在校生・卒業生に対するメッセージを何かお願いできませんか?

 皆さん、これからはますます長寿社会になると言われますが、ただぼうっと長生きしてもしようがないと思いませんか? 少しでも質の良い毎日を送っていただきたいのです。そのためには、一日でも若い間に、少しでも早い機会に、良いものに接していただきたいのです。どうもうまく表現し難しいのですが、単に教養のための教養ではなくて、ご自分が少しでも内容の豊かな生活をエンジョイするための手段としての教養です。
母校松蔭のことを思い出して下さい。ひょっとしたら良い思い出ばかりではないかもしれませんが、皆さんの松蔭の思い出は、きっと良い思い出の方が多かったのではないかと考えています。私の願いは、一人でも多くの方が、「松蔭に来てよかった」と言って下さることです。
なかなかそのような機会が無いかもしれませんが、ともかくあらゆる機会を捉えて大学に顔を出して下さい。ご承知のように大学では、いろいろなかたちで卒業生の大学への受け入れを考えています。例えば、講座履修とか土曜講座などもありますので、是非ご利用下さい。地理的な制約のある方など、せめてホームカミング・デイなどを捉えて、学校を訪れて下さい。その時などにお会いできれば幸いです。

 そうそう、今からお願いしておきます。このごろ少しずつ記憶力が悪くなってきまして・・・と言いますと、家内からそれは十年以上前から始まっていると言われるのですが、それはともかくお会いしたときには、「私は○○年卒業の○○です」と言っていただきたいのです。ある先生は、卒業生にお名前を尋ねて、○○(姓)ですと言われると、「それは知っていたのだが、お名前(ファースト・ネーム)が知りたかったのですよ」と言うようにしているのだと、几帳面な私などの真似の出来ない冗談を言っておられましたが、それほど多くの卒業生に恵まれた松蔭のますますの発展を心から祈っています。
                黒澤 一晃  一般教育担当(元学長)

  

 

 黒澤一晃先生は本年3月末に本学を去られました。長い間のご教授誠にありがとうございました。心から御礼申し上げます。